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「物語作品にとってストーリーは重要ではない」という主張から始まるエトセトラ

先日のエントリで、ちらっと触れた「繰り返し鑑賞される芸術としての物語作品にとってストーリーは重要ではない」という主張に関して徒然なるままに。前回、眠くて書ききれなかっただけで、大した話ではないのですけれども。

なお、どちらかといえば物語作品全般に関することであり、ゲームに特化した話ではありませぬ(つまり、より門外漢度が上がっています)。また、人様の意見を孫引いているだけで、自分の功績ではまったくありません。もちろん、解釈の間違いなどありましたら、すべて自分の責任です。

ストーリー vs 情緒

以前から断片的にはそうした意見を見聞きしていたのですが、もっとも明示的に知覚したのはある本の一節を読んでです。

<全ての本ものの芸術には情緒がある>
(中略)
情緒とは、そうした人の心を感動させるものであるといえましょう。そしてそれが、あるときは一つの雰囲気であったりします。
(中略)
芸術の中には、もう一度見たいと思うものがあります。いや、一度どころか、何度でも見たいというものがあります。風景にも人間にもあります。
なぜそんなに見たいのか、理由も理屈もはっきりしませんが、ただ、もう一度見たかったり、聴きたかったりします。つまりそれが雰囲気といい、情緒なのです。

これに続けて、物語作品を何度も見たくなる気持ちの理由は何かという分析で、以下のような主張がされます。

  • ストーリーは既に一度見ているので、ストーリーを追っていく興味ではない
  • 構成の面白さでもなさそうである
  • 以下の要素で雰囲気ができあがり、それが情緒となる
    • 性格の面白さ
      • 俳優の魅力も含まれる
      • 憧れの人物を見たい、という気持ち
    • 見せ場の美しさ
      • いい絵やいい壺を何回見ても飽きないのと同じ
    • テンポとリズム (セリフと動作)
      • 何回でも雰囲気につかりたくなるような、音楽の持つそれと同じ
    • 変化の楽しみ
      • たとえば、登場人物がだんだん酔っていく様のようなもの

これは、実は、新井一氏による「新版 シナリオの基礎技術」の終盤に出てくる議論です。故・新井一氏は、それまで徒弟制度のような形式だったシナリオライターの育成を、専門学校のような教育機関で行うように変革した第一人者であり、氏が建てたシナリオセンターでの、20枚シナリオによるトレーニングは(賛否はあるようですが)巷では有名です。この本もシナリオライターの教科書としてはロングセラーの一冊のようです。実際、読んでいて勉強になる所の多い良書です。

この主張の後で氏は、もちろんストーリーも観客の興味を引っ張っていく上で重要である、とフォローしています。しかし、「何度も見たいという要求の中には <この先どうなって行くのか> の要素をさえ乗り超える魅力がある」とも述べています。

シナリオライターは映画やテレビドラマといった物語作品の脚本を書く専門家です。そんなシナリオライターの教科書にも、ストーリーよりも何度も見返したくなるような情緒を重視する主張があることは興味深いと思いませんか?

物語は「存在感」を味わうためのもの?

話は変わりますが、昨年末の情報処理学会 EC 研究会で、そもそもエンタテインメントとは何ぞや、というアツい議論をしていました。その中で、物語作品に感じる楽しさのキーワードとして「存在感」を挙げる仮説が披露されました。自分が覚えている範囲では、以下のような仮説だったと理解しています。

(追記:電通大の梶本先生が披露してくださった仮説でした)

物語作品にとってストーリーが本質である、と考えている人は多いでしょう。そうした立場では、物語世界というのは、あくまでもストーリーが成立させるための道具立てでしかない、と考えられます。

しかし、ここで「物語作品が楽しい」の本質は存在感にこそあるのだ、と仮定してみます。この立場では、逆に、物語が語る世界の存在感こそが楽しさの本質となります。ここで言う世界は、登場人物たちも含んだ仮想世界全体のことです。

物語が語られていくに従って、さまざまな情報が観客の脳に入力されていきます。それは、その世界の街の風景の描写だったり、登場人物たちの何気ない掛け合いだったり、あるいは荒野を吹き渡る風の音だったりするでしょう。そうしてさまざまな入力が蓄積していくうちに、脳内に物語世界のモデルが出来上がっていくことになります。

こうした過程を経て得られる、「何かがあることに対する既知感」こそが脳にとって楽しいのである、というのがこの仮説です。

特に、人間は、人の存在感を構築するための脳内機能を豊富に持っています。登場人物がさまざまな状況でどんな風に行動していったか、ということを見ていくうちに、その人物の存在感は脳内でみるみる構築されていきます。登場人物の描写が大事な理由はここにある、という解釈になるわけです。

これは脳の飽くなき知識欲という本能を満たせるので楽しく感じるのだ、なんて結びつけると、理論として成立したように感じてしまいますね。

美麗なグラフィックスや、声優さんによる音声も、物語世界の存在感を増す情報としては役に立つ、と考えることができます。
この仮説においては、ストーリーは登場人物や物語世界のの存在感を高めるための存在だ、ということになります。

物語を作る順序を考えてみる

ここでまた視点を変えて、いったん物語作品を作るという立場になったと考えてみましょう。無の状態から、どこをとっかかりに物語を作り始めるか、すなわち物語作品の中核となるタネは何なのか、を考えてみます。

  • クライマックスシーンを思いついてしまった
    • すごいシーンを思いついてしまったために、いかにそのシーンにつなげるかを逆算して物語を作り始めます。
  • キャラクターを思いついてしまった
    • 個性的で生き生きしたキャラクターが脳内に居ついてしまい、仕方なくそのキャラが活かせる舞台を用意するという形で物語を始めます。
  • 伝えたいテーマがある
    • 物語作品の観客に対して伝えたい想いがあり、それをいかに伝えるかを考えて物語を作ります。

実際にはもっと複雑だとは思いますが、すぐに思いつくものをざっと書き出してみました。

このうち、始めの二つをよくみると、見せ場と登場人物の性格ということで、新井氏が情緒を作る源だとしていたものです。テーマも、ストーリーそのものではありません。こうしてみると、ストーリーは見せ場や登場人物の魅力やテーマを演出するために後付けされたものだ、と考えることができそうです。

物語作品にとって「ストーリー」は重要ではない

さて、様々な主張を検討してきましたが、実はここまで、「ストーリー」とは何ぞや、という定義をしてきませんでした。

「ストーリー」とは何か説明しろと問われたら、自分なら、例えば、登場人物が苦難にあって、それを乗り越え、成長し、目的を遂げる、といったあらすじで書ける部分だと答えそうです。もっと厳密に使うと、Wikipedia によれば「物語世界の中で起きている出来事が時間に沿って並べられたもの」だそうです。出来事の羅列なのですね。

しかし、物語作品を見て、ストーリーに感動した!と言った場合に指している「ストーリー」は、出来事の羅列やあらすじに感動しているわけではありません。出来事の羅列が作品上で表現され、それを受け取った自分の心に起こった感情の動き、その体験が気持ち良かった、と言っているわけです。ここに、「ストーリー」という単語を安易に使用すると陥るギャップがあります。

出来事の羅列としてのストーリーは、確かに見せ場やキャラクターに説得力(存在感)を与えるための道具かもしれません。しかし、その道具をよって導かれた、感情の流れの体験としてのストーリーは、物語作品の楽しみにとって根幹となるものだと自分は考えます。そして、そうした感情の流れこそが、情緒と呼ばれるものの大きな部分を占めるのではないでしょうか。

何度も見たい物語作品というのは、何度見ても、その感情の流れを感じられる作品ということになります。何度も感情の流れを体験できる作品を作るには、ストーリー=出来事の羅列を工夫するだけでは効果は薄く、それをいかに感情に訴えかけるように描写するかがポイントとなります。

以上のような意味で、「物語作品にとってストーリーは重要ではない」という主張があるのだ、と自分は理解しています。

もっとも、シナリオライターの不当に低い待遇などを伝え聞くに、本当のところはどうなのか不安になりますけれども……。

おまけ: ストーリー自動生成の価値

ストーリーがどうの、というのはただの言葉遊びだ、と思われる方もいるかもしれませんが、ここの勘違いは実はいろいろなところに影響がありまして。

例えば、世の中には、物語類型の研究を元にしたストーリーの自動生成というアプローチがあります。物語類型に関しては、Wikipedia の「物語の類型」の項目が詳しいですが、ウラジミール・プロップ氏のロシアの魔法民話に関する研究などが有名ですよね。こちらのページなどが簡便にまとまっています。

このストーリーの自動生成は、たとえば明日突然テーブルトークRPGのセッションをやらないといけなくなった!といった際に、プロットをとっさにひねり出すには向いています。しかし、それはそのひねり出したプロットは素でしかなく、プレイヤーが楽しめるセッションをゲームマスターが最終的には自分の手で作り出しているから実用になるのです。

全ての物語の類型は人類の歴史の中ですでに世に出回っているのだ、という説がありますが、それは何ら絶望を意味しないと信じています。なぜならば、出来事の羅列としてのストーリーは、豊かなストーリー体験を生み出すための道具でしかないからです。(もちろん、過去の全ての物語を今の受け手が知っているわけではないので、という現実的な理由もあるわけですけれど)

そんなわけで、出来事の羅列としてのストーリーを自動で生成できる→コンピュータが物語を作れました→だから人間が物語を作る必要はなくなるのです、と結びつけてしまうのはちょっと乱暴な議論ではないかと思っています。

人間が行うような、伝えたいテーマも込めたストーリーの自動生成ができたとしたら、それは驚くべきことだとは思いますが、情緒が分かる人工知能といった分野の話になってしまいますよね。反対に、足りないところを、受け手側に補完してもらうことで、自動生成的にはテーマを深く考えているわけではないんだけれども、受け手側にとってはとても哲学的な体験ができるような自動生成のアプローチはありえるとは思いますが、メインストリームになるとは少し思えません。

もちろん、研究というのは10年先、50年先を見据えたものもなければなりませんので、そういった点で、ピュアな物語の自動生成や、先日言及したエージェントベースの物語の自動生成を研究することが無意味だとは思いません。しかし、もしも実用を志向するのであれば、コンピュータを利用して物語を良くしていこうという試みは、computer aided story design とでも呼ぶべき、人の創造性を効果的に引き出すようなサポートとしてのコンピュータ、というあり方を模索する方がリアリティがあるのではないかと個人的には考えています。