「ゲーム性が高すぎるからクソゲーだ」という考え方

今年の CEDEC は、業務の隙間を突いて、本当に行きたいところにピンポイントに参加するような形となりましたが、そんな中で一番心にひっかかった話が、あるパネルセッションでちょろっと零れた表題の話でした。目から鱗の気分です。

もちろん、ニュアンスとして、アクション性が高くてゲームが難しすぎるというものも含んでいるのだと思います。しかし、(伝聞の話から想像する限り)おそらく、主眼は難度ではなく、強度なんだろうな、と感じました。

ゲームというのは、ゲーム内世界と、プレイヤーの思考と行動を結ぶフィードバックループと見なすことができるのですが、そのループを回すのはやはり疲れる行為なんでしょう。プレイヤー個々人の属性として、アクションのうまい下手とはまた違う軸として、ゲームのフィードバックループを回すことに慣れている/慣れていないという個人差があると考えた方が自然です。

そして、慣れていない人にとっては、次から次へとゲーム性の高い要素が差し出されてもお腹いっぱいで食べきれない、ということが起こりそうというのは簡単に想像できます。難しいから遊べない、ではなくて、一つ一つの操作は遊べるくらいの難易度なんだけれども、密度が高すぎて疲れてしまう、といった症状となるわけです。普段クラシックしか聴かない人にロックを延々と聞かせ続ける感じというか。

これまで、難易度調整といった形での調整は必要だという意識はあったのですが、そもそもゲーム性の高い要素そのものが負荷になりうるという視点が抜けていました。ゲーマーじゃない人や、若者に遊んでもらうためには、そういったところも気をつけるべきなんでしょうね。

ただ、自分のここでの活動の根源は、現在の多くの物語重視型のゲームには、物語に対するゲーム性が足りていない、という問題意識があってのことです。ですので、ゲーム性の積分を大きくしすぎてもよくないと言われると、ちょっぴり困ってしまいます。

もっとも、物語重視型のゲームの現在の流れを見ていると、ゲーム性が高すぎると文句が来るまでに、まだまだやれることがたくさんありそうですので、当面は心配する必要はなさそうなのですけれど(苦笑)