Using Low Level Stories

ネットで調べ物をしていたところ、某所で以下のような書き込みを見つけました。

「シナリオの無いストーリィ」については
以下のサイトが非常にうまく語ってくれています。
Using Low Level Stories
http://www.gamedev.net/reference/design/features/lowlevel/

※これ誰か全訳してもらえませんか。
※日本のゲーム業界の明日のために……。

そこまで言うほどのものならば、と自分で読みがてら、思わず全訳してしましました。が、全訳が終わった後で翻訳と転載の許可を頂こうと著者にメールしたところ、アドレスが死んでいました orz

まぁ、全文読んだ後となっては、いろいろツッコミ所もある記事だと分かりましたし、わざわざ全訳を掲載するほどでもないかと思い直しました。軽く、要点だけをご紹介します。僕の怪しい全文訳でも読んでみたいという方がいらっしゃいましたら、個人的にお送りしますので、ご連絡ください。

ざっくりまとめると、以下のような話です。

  • 感動的な物語と、何度もプレイしたくなる魅力 (replay value) というのは、世のゲームでは相反しているようだ。
    • ゲームデザイナーが考えた感動的な物語を体験してもらうには、プレイヤーの行動を制約せねばならず、それが replay value を減らす。
  • replay value を、ゲームデザイナーが作ったストーリー (high level story) で実現するのはコストがかかる上に、不完全だ。
    • ストーリーラインの分岐を作れば、replay value を増せるが、多大なコストがかかる。
    • 一部が異なるだけの申し訳程度の分岐だったら、全く replay value を増す役には立たない。
    • しかも、いくら頑張って作っても、結局は分岐数は有限なので、遊び尽くされたらおしまい。
  • replay value は、プレイヤーが自ら作り出すストーリー (low level story) で実現すべきである。
    • low level story は、物語が無いと思われているパズルなども含め、全てのゲームに存在している。
    • ゲームデザイナーが毎プレイごとに異なる体験ができるように苦心しなくても、ゲームシステムに自由度がありさえすればよい。
    • プレイヤーは同じことに飽きれば別なことを試すので、自然とプレイごとに異なるものになる。
  • low level story の使い方
    • プレイヤーに自身の決定が、ゲーム世界に影響を与えるのだ、ということを示すことが重要。
    • 何も、メインイベントに複数のバージョンを作れといっているわけではない。
    • プレイヤーは、ほんの些細なことでも、自分が影響を与えていることを喜ぶものである。
    • プレイヤーの行動がどのようにゲーム世界に反映されるかを予想させてはいけない。驚かせるべし。
    • ほんの限られたいくつかで十分。低コストで実現できる。
  • low level story の例
    • テトリス(本論からは微妙に外れています)
      • ブロックが積み上がってしまい、最後の望みをかけてテトリス棒を待ち続け、ようやくテトリス棒が来てテトリスを達成できた、というシーンでのプレイヤー内のストーリー。
    • メインのストーリーとは全く関係なく、ライバルの家に盗みに入ったりできる架空のゲーム。
      • 翌朝、泥棒に入られたとの噂が町を流れていたりすることで、ゲーム世界に影響を与えたことを知る。
    • 未来に飛ばされて、自分の故郷に帰ってきたら、自分たちが伝説になっていた、という架空のゲーム。
      • 過去に自分たちが行った些細な行動が、針小棒大に誇張されて伝説になっていることで、自分たちの行動がゲーム世界へ与えた影響を知る。
  • まとめ
    • low level story を活用することは、ゲームが持つインタラクティビティを生かすことだ。
    • low level story と high level story を組み合わせて使うことで、感動的な物語と replay value を両立できる。
    • 究極的には、世界を守るといった陳腐化した物語よりも、low level story の身近でユニークな体験をプレイヤーは好むようになるかもしれない。

大切なことを言ってはいるんですが、気持ちが先走ってしまって少し論旨がまとまっていない、という感じでしょうか。GemeDev.Net のこの記事に関する掲示板でも、ずいぶん突っ込まれているようです。

ただ、この記事が掲載されたのは、2001年10月で、GTA3が北米で発売される一週間前です。その後の箱庭ゲームの隆盛を考えると、時流をとらえた記事だったと言えそうです。

まとめてみる

この記事は、以下のような主張で構成されています。

インタラクティブ性を追求したいという話

ゲームたるもの、プレイヤーの行動に応じた反応を返す、というインタラクティブ性を具有しなくてどうするんだ!という思想。

無限のゲーム体験を生み出したいという話
  • テトリスなどの普通のゲーム
    • 「ゲームプレイ(無限)」→「プレイヤーの内面の情動」
  • 従来型の物語重視のゲーム
    • 「ゲームデザイナーが創ったストーリー(有限)」→「プレイヤーが解釈したストーリー」→「プレイヤーの内面の情動」
  • 今回提案手法のゲーム
    • 「ゲームシステムが提供する因果っぽいもの(無限)」→「プレイヤーが解釈したストーリー」→「プレイヤーの内面の情動」

ゲームシステムが無限に因果っぽいものを提示すれば、プレイヤーはそこからストーリーを解釈し、無限に楽しむことができる。

あとからくっついてきているおまけの効果

因果っぽいものを、プレイヤーの行動に応じて提示するようにすれば、プレイヤーが勝手に体験したことのないパターンを選んでくれるので、デザイナーは何も考えなくてよくて、楽だ。(ほんと?)

考えられてないもの
  • プレイヤーの選択肢を広げるためのゲームシステムの作り方
  • デバッグコスト

low level story をしっかりと考える

low level story とこの記事で呼んでいるものは、かなり広範囲をカバーする概念です。それなのに、きちんと定義せずに、感覚的に便利に使われているのが、気持ち悪さの根源な気がしています。これを片付けましょう。

この記事では、ゲームをプレイすることによって、プレイヤーの中に生じるストーリー、それが low level story だとしています。

その後、実例として、テトリスと、自由に隣人から盗めるゲームと、自分の行動が伝説になってしまうゲームが挙げられるわけですが、これらをひとくくりにするのは大雑把すぎるように感じます。

テトリスで low level story と呼んでいるものは、ゲームをプレイしている間に変化する感情の流れです。緊張と緩和、リスクとリターンといった、ゲームデザインにおける各種のテクニックは、この感情の流れを制御するためにあります。

一方、自由に隣人から盗めるゲームに関して言えば、もう少しレイヤが高くて、プレイヤーが自分で自由に、因を作ることによって果が得られることを楽しみます。その因果の流れを low level story と呼んでいます。

最後に、自分の行動が伝説になってしまうゲームに関しては、今度は能動性がなく、プレイヤーが起こした行動によって、実はゲーム世界内で因果が発生している、というその因果を low level story としているようです。

前者2つは、開発者が一つ一つのストーリーを仕込んだものではないという点で共通はしています。しかし、前者は一般のゲームデザイン論でカバーするべき話であって、無理矢理ストーリーとして考えてみるのは(多面的視点という点では意味があると思いますが)あまり実益がなさそうです。

最後の1つは、プレイヤーの意思が介在していませんので、インタラクティブとは言えません。しかし、ここで重要なのは、プレイヤーが因果関係を見せられることで、この話を自分の物語だと認識したかどうかです。そういった点では、後者2つは、人とは違う、自分だけの物語が得られたという点で共通しています。

ゲームシステムがプレイヤーに多様な選択肢を提供することで、replay value を高める、という議論の中心となるのは、やはり2番目の隣人から盗める例であり、著者が語りたかった話の中心はここにあると考えた方が良いでしょう。それは、現在では GTA シリーズや OBLIVION といったゲームの人気を支える大きな要素となっているものです。

というわけで、この3種類の例が並列だと思ってこの記事を読むと、考えれば考えるほど混乱することになりますのでご注意ください。

「プレイヤーが解釈して内面に形成したストーリー」

low level story という用語は一般的ではないので他では使わない方がいいと思いますが、この記事で述べられている「プレイヤーが解釈して内面に形成したストーリー」を意識することは重要です。

大げさな物語としてテキストで描かれていなかったとしても、プレイヤーがそこに意味を感じ取れば、それだけでストーリーは成立するのです。箱庭ゲームで NPC 同士が無言のインタラクションを起こしているのに出くわすこともあるでしょう。もしかしたら、大戦略で敵の波状攻撃をかいくぐり、都市を占領した際に豊かなドラマを想像する人もいるかもしれません。

また、実のところ、受け手の内面にどう写るかが重要だというのは、ゲームだけではなく、他のメディアにおいても言えることでもあります。受け手は、その瞬間に画面に映されている情報をただ頭の中に複写しているわけではなく、それを記号として認識して受容します。認識の際には、自分の知識との関連づけを行いますし、常に行っている未来予測との比較もしています。そういった受け手の内部状態こそが、受け手の情動を動かす一番の元となる要素であることを、頭の片隅で意識しておく必要があります。

導入でその作品のジャンルをきちんと提示しないといけないとか、お笑いは場の温まり具合が非常に重要であるとか、BL好きにはイケメンが二人歩いているだけでカップリングに見えるとか、そういう話です。

結論

ようするに、low level story を理解したければ、ガンバレードマーチを遊べ、ということですな。

replay value は本当に必要なのかどうか、という話は隣のエントリで。

ゲームは何度も遊べる必要があるのか、から徒然なるままにインタラクティブな物語に関するあれこれ

隣のエントリで、物語を重視するゲームに replay value を付加する方法の記事を紹介しました。その際に、はたしてそもそも物語重視のゲームが何回も遊べる必要があるのか、という観点での議論はしませんでした。

この話はいろいろな要素を含む上、ごく個人的な見解となりますので、独立したエントリとしてダラダラと。

商売として

ややこしいことは最初に済ませておきます(笑)。

商売としては、中古市場対策という話が当然出てくるでしょう。一回遊んでおしまい、というゲームであれば、あっという間に中古に流れる、とエラい人が考えるのも当然です。

ここに注力するのであれば、何回も遊べるようにすることには意味があると思います。が、最近は、ネットで追加コンテンツを配信とか、続編のキーワードで隠し要素が出てくるとか、いろいろな手練手管がありますので、そちらの活用もぜひご検討いただきたい。

個人的な意見を言えば、小手先で対策しても売りたい人は売るんですし、「手放したくないと思ってもらえるゲームを作る」というのに注力するのが真っ当な勝負の仕方じゃないかなぁ、なんて思ったりも。青臭い話ですけれどね(苦笑)

ボリューム感

ユーザさんが感じるボリューム感の問題もあります。払った金額の分の時間は楽しませて欲しい、というわけですね。6800円で買ったソフトで68時間遊べれば、100円/時、というわけです。

本来20時間のボリュームしかないものを60時間保たせようと思ったら、収集要素を追加するか、話に分岐でも作っておくしかありません。replay value、大事ですよね。

ただ、エンタテインメントって、安い=良い、というわけではないと思うんです。90分の映画に1500円を払う学生さんが、なぜゲームには100円/時を求めるんでしょう。カラオケの時間単価だって結構なお値段ですよね。逆に、オンラインゲームを遊んでいれば、10円/時くらいのコストで遊び続けることだってできます。

一方で、時間のない社会人にとっては、逆にボリュームがありすぎることが、ゲーム離れに繋がっていました。社会人相手では、お金よりも可処分時間の奪い合いに勝たねばなりません。

時間の長短ではなく、代金に見合うと思ってもらえる体験を提供する。それが大事なことのように思います。

エージェントベースのインタラクティブストーリーテリング

interactive storytelling とか、interactive narrative と呼ばれる分野を研究している人々がいます。コンピュータの力で、物語の新しい世界が切り開かれるのだ!と信じている研究者たちです。

そういった研究の多くは、なぜかエージェント指向に向かっているようです。NPC がそれぞれ独立して振る舞い、それらの NPC とのインタラクションしていくことで動的な物語を生成する、というアプローチです。それこそが、仮想の世界で動的に物語を生成されるという、作家個人の知を超えるブレイクスルーとなりえるのだ、という主張です。ただ、研究の途上ですので当然ではありますが、なかなか人間が楽しめる物語を自由に生成するというところには到達できていません。

自然なテキストを作るのが難しいので、プレイヤーの解釈により形成されるストーリーを積極的に利用する、といったアプローチもあります。ガンパレードマーチなんかはまさにその実験作にして傑作ですよね。ガンバレはこの分野の研究者の皆さまにも好評のはずです。最近の GTA や OBLIVION なども、この分野にはいるかもしれません。

エージェント原理主義者の方々は、エージェントとのインタラクションで動的に生成される物語を目指しています。当然のことながら、繰り返し遊ぶことは全く問題ありません。

自分も、このアプローチも興味深いと思って注目はしています。が、個人的に追い求めているゲームにおけるインタラクティブな物語の姿はこれではありません。

自分の望むインタラクティブな物語

小さい頃から本で物語を読むことに慣れきってしまっている自分にとっては、よく練られたテキストの繋がりこそが物語であり、それは感情を揺さぶるものでなければなりません。仮想世界で隣人のものを盗むことにはそれほど興味がないのです。そういった点では、旧来型の物語媒体の延長としてのゲームを志向しているといってもいいと思います。

世に溢れる物語を陳腐だと切って捨てる人には、エージェントによる自動生成は、リアルで目新しく、魅力的かもしれません。しかし、そこには未だ練られたドラマを常に供給できるだけの安定性はないと考えています。

もちろん、技術のブレイクスルーが起こる可能性は常にありますし、打率の悪さは集合知を用いたアプローチなどで解決できるかもしれません。しかし、それでも自分は、物語には人のぬくもりが欲しいのです。伝えたいテーマと、それを表現するために試行錯誤する物書きさんが、物語の背後にはあって欲しいと願います。

ただ、一方で、ゲームは、ゲームならではの表現媒体であるべきだ、とも信じています。ゲームの本質はインタラクティブ性です。人の書いたインタラクティブな物語、それが、自分が追求しなくてはならない道なのです。

物語のインタラクティビティ

物語のインタラクティビティの目指すところは、いかにプレイヤーの心を揺さぶるか、ということに尽きます。ゲームの持つ強烈な疑似体験能力を使い、物語の世界にプレイヤーを引き込むのです。

インタラクティブな物語と、他メディアのリニア(線形)な物語の最大の違いは、プレイヤーの能動的な介入が必須かどうかです。映画は何も考えなくてもぼーっと見ていれば話は終わります。小説は、読み進めるという能動性は必要ですが、目に入るものを受け入れるだけで終わらせることもできます(そういう鑑賞法を推奨しているわけではありません)。しかし、インタラクティブに作られたゲームは、主人公の立場に立ち、状況を分析し、能動的に行動していかなければ、ハッピーエンドを迎えることはできません。この能動性が必要というのは、ゲームを遊ぶハードルを上げる原因でもありますが、ゲームを他の物語媒体と一線を画させる切り札でもあります。

プレイヤーが選択を間違えて主人公が失敗すると、それは主人公のミスではなく、プレイヤーのミスとして知覚されます。逆に、ぎりぎりの逆境を、プレイヤーが智恵を振り絞って切り抜けたとき、その達成感は主人公と共有するものとなります。これらの性質はゲーム一般で言えることではありますが、物語媒体としてゲームを見たときには、他メディアと比べて物語への没入度が高くできる、という利点となります。

なお、この効果を十全に発揮するには、選択を行ったときのプレイヤーの意思と、結果としてのキャラクターの行動がかみ合っている必要があります。入力と行動が直接リンクしているアクションゲームと異なり、物語重視のゲームはしばしば、選択と結果の因果関係がシンプルではない場合があるため、この点についてはシナリオライターが余程注意をしておく必要があります。が、実際には、あまり気を遣われていない気もします。

また、物語世界に対して、プレイヤーがユニークな影響を与えていることを示すことによって、物語が自分のものであるという感覚を与えるというテクニックもあります。これは、Using Low Level Stories でも触れられていました。物語世界に愛着を感じさせる効果があるでしょう。

似たテクニックとしては、選択を分析し、プレイヤーにとって居心地のいい、自己投影しやすい世界を提供するというのもあります。物語世界をプレイヤーに近づける、と言ってもよいかもしれません。

ちなみに、アドベンチャーゲームなどでは、繰り返しをベースに物語を発展させていくという手法もありますが、これらは分岐をインタラクティビティのために使うというよりも、形式化されたアドベンチャーゲームというジャンルで独自に発展した表現形式の1つととらえた方がよいでしょう。

ただ、従来のアドベンチャーゲームなどでは、残念ながら、上述のような効果を狙って作られたのではなく、単なるボリューム稼ぎのための選択肢というものも多くあります。それが、アドベンチャーゲームを、つまらないところで手間だけがかかる、ゲームとも言えないものだと、一部の人に思わせている原因かもしれません。

と、いろいろ脱線して書きましたが、言いたかったことは、ここで言及しているタイプのゲームにおいては、インタラクティビティはテーマを伝えるための道具であって、グランドフィナーレを迎え、テーマを表現し終えれば、ゲームとしてはそれ以上プレイする要素はなくなるのだ、ということです。

この種のゲームにおいて、何度も遊ぶ価値があるかというのは、他のメディアの物語を再び鑑賞する価値があるかいうことと同じ意味を持っていると考えるべきです。と、ここを書いていて、DVD のレンタル店の存在と、映画とゲームの資金調達体制の違いが脳裏によぎりましたが、まぁ、映画の DVD とゲームは簡単に比較することはできないんですよね。

なにはともあれ、全ての分岐を遊び尽くしたらゲームの価値が無くなる、というのは暴論です。小説や映画は一回見たら価値が無くなるのか、というのと同様に、手元に置いておいて、時々遊び直したくなるゲームを作ることは可能だと信じています(し、実際にそういうゲームはたくさん存在していると思っています)。

群像劇としてのマルチユーザストーリー

従来の物語媒体の延長としての(ただし、インタラクティブ性を生かした)ゲームに興味がある、と述べましたが、実はもう一つ興味がある分野があるので、ちょっとだけフォローしておきます。それは、機械がジェネレートした物語ではなく、たくさんのプレイヤーが参加して作り上げていく物語です。

現在の多くの MMO ゲームを物語の視点から考えると、いわば low level story だけを利用して、プレイヤーや、パーティー、ギルドといった個々の小さな物語を繋ぐことでゲームを成立させていることになります。それはそれで楽しんでいる人がたくさんいらっしゃるわけですが、これに high level story を加えつつ、high と low の間を埋める仕掛けをたくさん作ることで、群像劇としてのマルチプレイヤーのストーリーを成立させることができるかもしれません。それはきっとやりがいのある仕事でしょう。

この種のゲームは、リアルタイムにプレイが展開していくことになりますので、今回の話題である何度も遊ぶという概念からははみ出してしまっているわけですけれど。

このような deep なお話ができる相手を探しています!(笑)

なかなかここまで物語のインタラクティブ性について deep に話せる人が周りにいないので、今回のエントリではつい溜めていたものがちろっと溢れてしまいました。このエントリを読んで、もしもぴぴっと来たらご連絡ください(笑)いいコミュニティがあるという情報でも大歓迎です〜。

なお、ストーリーは(芸術としての=繰り返し鑑賞される)物語作品にとってはたいして重要ではない、といった主張に関する話はこちらのエントリで。